登入午前十時。
LUXE ARTS本社の会見場には、百人を超える報道関係者が集まっていた。
無数のカメラが壇上へ向けられ、記者たちの低い話し声と、機材を調整する音が絶え間なく重なっている。前方には白い社名板が掲げられ、その下に長机と二脚の椅子が置かれていた。
用意されている席に、白峰凛花の名はない。
凛花は会見場から二つの廊下を隔てた、小さな応接室にいた。
窓のない部屋だった。
壁には何の絵も飾られておらず、古い空調が低く唸っている。革張りのソファの向かいには大型画面が置かれ、まもなく始まる会見の映像が映し出されていた。
凛花の左右には事務所の社員が一人ずつ立っている。
監視されているようだと思った。
その感覚を打ち消そうとして、膝の上で両手を組む。爪の先まで整えられた指は、触れ合わせてもほとんど温度を感じなかった。
警察署を出てから、まだ数時間しか経っていない。
一睡もしていなかったが、鏡の中の顔に疲労は残してこなかった。薄くなった化粧を直し、目元の腫れを冷やし、髪を結い直した。
誰かの前へ出るなら、女優として立つ。
それが十年間、凛花を守ってきた習慣だった。
画面の向こうで、会場の扉が開いた。
社長の葛城礼司と顧問弁護士が入ってくる。途端にシャッター音が激しくなり、白い光が壇上を埋めた。
葛城は濃紺のスーツに身を包み、沈痛な表情を浮かべていた。
四十代半ばでLUXE ARTSを立ち上げ、わずか十数年で業界最大手の一角へ押し上げた男だった。十七歳の凛花を初めて見た時、君のために世界一大きな舞台を用意すると言った。
凛花が受賞すれば、自分の娘のことのように喜んだ。
海外の仕事が決まれば、誰より先に祝福の花を贈ってきた。
その葛城が今は、凛花のいない壇上で深々と頭を下げている。
「このたびは、弊社所属の白峰凛花に関する一連の報道により、多くの皆様へご迷惑とご心配をおかけしましたことを、心よりお詫び申し上げます」
無数のシャッターが切られる。
葛城は十秒近く頭を下げ続けた。
やがて顔を上げた時、その表情には訓練された苦悩が浮かんでいた。誰が見ても、所属女優の不祥事に心を痛める責任者に見える。
凛花には分かった。
葛城は悲しんでいるのではない。
会社が責任を果たしているように見える角度と時間を、正確に選んでいるだけだった。
「弊社といたしましては、現在確認されている事実を重く受け止め、関係各所への聞き取りを進めております」
確認されている事実とは、何を指すのだろう。
凛花が真白の腕を掴んだことか。
車から薬物が発見されたことか。
監督の部屋へ挨拶に向かったことか。
そのどれも、流布されている疑惑を裏づけるものではない。
けれど葛城は、映像に加工の可能性があることも、凛花の薬物検査が陰性だったことも口にしなかった。
記者の一人が手を挙げた。
「天音真白さんへの暴行について、事務所は以前から把握していたのでしょうか」
「現時点において、そのような事実を把握していたとの報告は受けておりません」
「薬物使用についてはどうですか。白峰さんの現場での様子に、異変はありませんでしたか」
「本人から十分な説明が得られておらず、弊社としても事実関係を確認しているところです」
凛花の指がほどけた。
「待って」
小さく漏れた声に、近くの社員が視線を動かす。
「私は全部説明したでしょう」
昨夜から何度も同じことを話した。
廊下で起きたこと。監督の部屋を訪ねた理由。車の鍵を管理していた者たち。警察署での検査結果。
志保だけではない。事務所の法務担当にも、危機管理担当にも聞かれたことはすべて答えた。
それを葛城は、説明を拒んでいるかのように語っている。
凛花は立ち上がった。
「会見場へ行かせて」
扉の前にいた二人の社員が、同時に身体を動かした。
「社長から、白峰さんはこちらで待機するようにと言われています」
「私自身が説明しないと意味がないでしょう」
「混乱を避けるためです」
「すでに全国へ流れているのよ。私が何も言わずに隠れているように見える方が、よほど――」
凛花が扉へ向かう。
社員の一人が正面へ立ち塞がった。
触れてはいない。けれど通す意思がないことは、その固く張った肩から伝わった。
彼は三年前まで、凛花の現場警護を担当していた男だった。
海外の空港で群衆に囲まれた時、凛花を庇って腕を負傷したことがある。息子が凛花の映画を好きなのだと、照れたように話していた。
「退いて」
凛花が告げると、男は目を伏せた。
「申し訳ありません」
「私がここに所属している女優でも?」
「社長の指示です」
扉までは、あと数歩しかない。
それなのに会見場は、どこよりも遠い場所にあった。
画面から葛城の声が聞こえる。
「一連の事態を受け、関係各社ならびに所属する俳優、タレントへの影響を慎重に検討いたしました。その結果――」
凛花は振り返った。
葛城が机の上の文書へ目を落とす。
顧問弁護士は正面を向いたまま、表情ひとつ動かさなかった。
「弊社は、白峰凛花との専属契約を、本日付で解除することを決定いたしました」
室内から音が消えた。
空調の唸りも、画面から流れるシャッター音も、何も聞こえない。
凛花は扉の前に立ったまま、葛城の口元を見つめていた。
何を言ったのか、理解するまでに時間がかかった。
専属契約を解除する。
今日、ここへ呼ばれた時にも、その説明は受けていない。
凛花に知らされるより先に、全国へ発表されたのだ。
十年間所属してきた事務所だった。
十七歳の少女を看板女優へ育てた代わりに、凛花もまた、この会社へ莫大な利益をもたらしてきた。
年間を通して休みが一日もない時期があった。高熱のまま撮影したことも、骨にひびが入った身体で舞台挨拶に立ったこともある。
売上が伸び悩んでいた新人時代の蒼真との共演を受け入れたのも、赤字が続いていた映画へ無償同然で出演したのも、会社のためだった。
凛花の名で建てられた本社ビルで、今、その凛花だけが切り捨てられようとしている。
画面の中で、記者たちが一斉に質問を浴びせる。
解除は事実上の処分なのか。
疑惑を認めたということか。
本人から謝罪はないのか。
葛城は、それぞれの質問へ慎重に答えていた。
凛花の無実を示す言葉だけは、一度も選ばなかった。
*
会見が終了してから十分ほどして、応接室の扉が開いた。
葛城が顧問弁護士を伴って入ってくる。
社員たちは一礼し、入れ替わるように退出した。廊下に志保の姿はなかった。
葛城は向かいのソファへ腰を下ろし、ネクタイを僅かに緩めた。
「騒がせたね」
まるで長い会議を終えただけのような声だった。
「どうして私を会見へ出さなかったんですか」
「出して何を話すつもりだった?」
「事実を話します。私は真白ちゃんを殴っていない。薬物も使っていない。映像の音声も――」
「君がそう主張すれば、記者は信じるのか?」
「少なくとも、黙っているよりはいいでしょう」
「感情的な釈明は会社の傷を広げるだけだ」
感情的。
その一言が、凛花の胸へ冷たく刺さった。
昨夜から一度も、声を荒らげてはいない。誰かを罵っても、取り乱して泣いてもいない。
それでも彼らにとって、会社の決定に従わない言葉は、すべて感情にすぎないのだ。
「事務所には、ほかの所属タレントと社員を守る責任がある」
「私は所属タレントではないんですか」
葛城の目が、初めて凛花を真っ直ぐ見た。
「今朝まではね」
凛花の呼吸が止まる。
「一度も私の話を信じようとしなかった」
「信じる、信じないの問題ではない」
葛城は顧問弁護士へ手を差し出した。
渡された分厚い封筒を、凛花の前へ置く。
「君を残すことで、会社が失う金額を考えた結果だ」
封筒から取り出された書類が、テーブルの上へ一枚ずつ並べられた。
専属契約解除通知。
損害賠償請求の予告書。
映画『白い残響』の公開延期に伴う負担額。
複数の広告契約の打ち切り。
主演ドラマの撮り直し費用。
凛花を起用していた化粧品や衣料品の回収費用。
紙が置かれるたび、乾いた音が響いた。
最後に示された数字を、凛花はしばらく理解できなかった。
九億二千万円。
桁を数え直しても、数字は変わらない。
「払えるわけがないでしょう」
「君が所有する不動産や有価証券、その他の資産を処分しても足りないだろう。今後、各社と協議することになる」
「疑惑が事実ではなかったら?」
「その時点で改めて検討すればいい」
「無実だと証明されたら、失ったものは戻るんですか」
葛城は答えず、書類の端を揃えた。
「世間がそう判断するまで、何年かかると思っている」
その手には、迷いも震えもなかった。
凛花はようやく気づいた。
葛城は真実を知りたいのではない。
何年も先に明らかになるかもしれない真実より、今日の株価と、明日の取引先を選んだのだ。
「十年間、私がこの会社へもたらした利益は、いくらですか」
葛城の指が一瞬だけ止まった。
「それと今回の件は別だ」
「私が稼いだ時は会社の功績で、損失が出たら私一人の責任なんですね」
「君ほどの女優なら、仕事が善意だけで成り立っていないことは理解しているはずだ」
葛城は立ち上がった。
「私物は今日中に撤去してくれ。専用の部屋も楽屋も、今後は使用できない。警備上の都合があるから、午後三時までに済ませるように」
扉へ向かいかけた葛城の背中へ、凛花は声を投げた。
「社長」
男の足が止まる。
「十七歳の私に、世界一大きな舞台を用意すると言いましたよね」
葛城は振り返らなかった。
「君はもう、十七歳の少女じゃない」
扉が閉じたあと、凛花は一人で書類を見つめた。
紙の上に並ぶ自分の名前が、見知らぬ誰かのものに思えた。
*
十年間使ってきた部屋には、段ボール箱が三つ用意されていた。
壁に飾られていた受賞写真はすでに外され、白い四角い跡だけが残っている。
凛花は台本、手紙、私物を一つずつ箱へ収めた。
新人の頃に志保から贈られた万年筆。初主演映画の撮影で使った古いノート。社員たちの寄せ書き。昨年の誕生日に、会社中から贈られたメッセージカード。
廊下へ出ると、社員たちは一斉に視線を逸らした。
以前なら、凛花が歩くだけで立ち上がり、挨拶をしてきた者たちだった。
声をかける者はいない。
若い女性社員が一人だけ立ち止まりかけたが、上司らしい男に腕を引かれ、そのまま通り過ぎていった。
専用車も運転手も、すでに使用を禁じられていた。
凛花は段ボール箱を受付に預け、裏口から外へ出た。
冷たい風が頬を刺す。
タクシーを呼ぼうとして、駐車場の隅に見覚えのある車を見つけた。
警察の調査を終え、返却された自分の車だった。
凛花は周囲を見回しながら近づいた。
鍵を開け、運転席の扉を引く。
甘く青臭い香りが流れ出した。
座席の上に、白い百合が一本置かれている。
花は茎からではなく、花冠のすぐ下で切り落とされていた。首を刎ねられたように、白い花弁だけが黒い革の上へ転がっている。
その下には、二つ折りの紙があった。
凛花は息を詰め、端を摘まんで開いた。
赤い文字が、紙の中央に滲んでいる。
――次は、お前の首。
背筋を冷たいものが這い上がった。
凛花は振り返る。
駐車場には誰もいない。
風に揺れる植え込みの音と、遠くを走る車の音だけが聞こえる。
誰かが、すぐ近くから自分を見ている。
そんな気配だけが肌へまとわりついていた。
頭上で、小さな作動音がした。
天井に取りつけられた防犯カメラが、ゆっくりと向きを変える。
黒いレンズは、逃げ場を失った凛花の顔を、真っ直ぐに見下ろしていた。
『灰の鳥』の撮影開始から、一週間が過ぎた。 早朝の撮影現場には、まだすべての出演者が揃っていなかった。 スタッフたちは機材を運び、前日に撮影した場面から変更された小道具を並べている。 凛花は共用の控室で衣装へ着替え、台本を持って撮影場所へ向かっていた。 建物へ入る前に、怒鳴り声が聞こえた。「今さら主演を替えろという話を、受け入れられるわけがないだろう!」 日下部の声だった。 普段から言葉は厳しい。 だが、ここまで感情を露わにする姿は珍しかった。 凛花は足を止めた。 撮影に使う古い建物の一角で、日下部と制作責任者が向かい合っている。 扉は開いたままだった。 周囲にスタッフがいるにもかかわらず、二人とも声を抑えようとしていない。「こちらも、簡単に主演を替えたいと言っているわけではありません」 制作責任者が書類を持ったまま答える。「ですが、新しい出資者候補が見つかったんです。この条件を逃せば、撮影を最後まで続けられる保証がありません」「金なら九鬼の会社が出した」「不足しています」 制作責任者の声も強くなる。「当初の予算なら足りました。ですが、撮影所の変更、警備費用、情報管理、新しいロケ地の使用料。白峰さんへの攻撃に備えるたび、予定になかった費用が増えています」 撮影場所を非公開にしたことで、移動や宿泊の手配も複雑になった。 ロケ地の管理者には、通常以上の警備と秘密保持を求めなければならない。 盗撮を防ぐための人員。 出演者たちを別々に運ぶ車。 撮影データを管理する設備。 凛花を守り、作品を外へ流出させないために、予算は膨らみ続けていた。「九鬼側へ追加出資を求めればいい」「すでに相当額を負担しています。制作費を一社へ依存すれば、今度は九鬼会長が作品へ介入しているという報道を否定できなくなる」「今のところ、あの男は何も口を出していない」「今後もそうだという保証はありません」「それで、新しい出資者の条件は何だ」 日下部の問いに、制作責任者は一度周囲を見た。 凛花と目が合う。 明らかに言いにくそうな表情になった。「続けてください」 凛花は自分から近づいた。「私に関係する話でしょう」 制作責任者は書類を握り直した。「出資の条件は、主演の変更です」 周囲のスタッフの動きが止まる。「白峰さんを降板させ、
『灰の鳥』の撮影が始まってから、凛花はほとんど眠れていなかった。 身体は疲れている。 早朝から現場へ入り、一つの場面を何度も撮り直し、夜には翌日の台本を確認する。 ベッドへ入る頃には、目を開けていることさえ辛い。 それでも、眠りへ落ちることができなかった。 目を閉じると、黒い車へ押し込まれた時の感覚が蘇る。 後ろから口元を塞がれた。 腕を捻り上げられた。 車の座席へ頭から押し込まれ、扉が閉まった。 逃げ道を失った瞬間の音まで、鮮明に聞こえる。 顔へ液体を浴びせられた時の冷たさ。 酸かもしれないと考え、身体が動かなくなった恐怖。 黒い染料に汚された自分の顔。 自宅マンションの壁に書かれていた言葉。 ――人殺し。 ――消えろ。 ――二度と演じるな。 そして、ホテルの廊下で泣いていた天音真白。 凛花から暴力を受けたと訴えた顔。 何もしていない。 そう言い聞かせても、真白の泣き声だけが耳から離れなかった。 誰かが意図的に演じさせたのか。 真白自身が嘘をついているのか。 それとも、凛花の知らないところで本当に何かが起きていたのか。 眠りに落ちても、数十分で目が覚める。 時計を見る。 一時十二分。 一時四十七分。 二時三分。 目覚ましを設定しているにもかかわらず、翌日の撮影へ遅れることが怖かった。 凛花が寝坊すれば、現場へ入る時間が遅れる。 撮影が止まる。 また、白峰凛花が全員へ迷惑をかけたと書かれる。 時計を確認する。 まだ二時を過ぎたばかりだった。 九鬼邸の客室は、静かすぎた。 都心から離れた広大な敷地。 外部の音を遮る厚い壁と窓。 高い塀の外を走る車の音さえ聞こえない。 廊下を歩く使用人も、夜間は足音を立てない。 安全なはずの場所だった。 屋敷の周囲には警備員が配置され、監視カメラがすべての出入口を見張っている。 凛花を拉致した男たちも、色水を浴びせた女も、ここへは近づけない。 それでも凛花には、逃げ道のない箱のように感じられた。 何かが起きても、塀を越えて逃げることはできない。 警備員が守る門は、凛花を外へ出さないための門でもある。 目を閉じようとした時、廊下から小さな物音が聞こえた。 凛花は息を止めた。 布が擦れるような音。 続いて、足音。 近づいてくる。 隣の部
『灰の鳥』の撮影二日目。 撮影場所は、郊外にある古い民家だった。 長く空き家になっており、撮影終了後には取り壊されることが決まっている。 塗装の剥げた木製の門。 雑草に覆われた庭。 雨風で色の変わった外壁。 玄関の引き戸には細かな傷が残り、開けるたびに鈍い音がする。 九年間、誰にも手入れされなかった佐伯梓の実家として、そのまま使われることになっていた。 撮影場所は、出演者と主要スタッフにしか知らされていない。 移動経路も当日の朝まで伏せられていた。 九鬼側の警備員たちは、民家の周囲だけでなく、近くの道路や空き地にも配置されている。 撮影区域の外からカメラを向けている者がいないか、何度も確認が行われた。 それでも、凛花は落ち着かなかった。 昨日、駅で撮影された盗撮映像。 何度も歩き直す姿だけが切り取られ、失敗を繰り返して現場を止める女優として拡散された。 最終的に採用された一回は、世間へ届いていない。 失敗だけが、白峰凛花の現在として見られている。「準備できたか」 日下部の声が飛ぶ。「はい」 凛花は梓の衣装をまとい、玄関前へ立った。 この日、最初に撮影するのは、梓が亡くなった母親の家へ入る場面だった。 九年ぶりに戻った実家。 母親の葬儀には間に合わなかった。 家の中には、遺品を整理する者もいない。 梓は一人で玄関を開け、自分を最後まで信じなかった母親の残したものと向き合う。 撮影前に、日下部から動きを指定されている。 引き戸を開ける。 家の中を見る。 一歩入り、靴を脱ぐ。 廊下へ上がり、台所の手前で止まる。 床には、俳優の立ち位置を示す小さな目印が貼られていた。 カメラの画角と照明、焦点を合わせるために必要な印だった。 一度で成功させなければならない。 凛花はそう考えていた。 また撮り直しが増えれば、誰かに映像を盗まれるかもしれない。 撮影場所を隠しても、スタッフの中に情報を流している人間がいないとは限らない。 失敗する姿を見せなければ、切り取られることもない。「本番!」 助監督の声が響く。 カメラが回り始めた。 凛花は引き戸へ手をかける。 建てつけの悪い戸を、指定された速度で開ける。 家の中へ視線を向ける。 一歩入る。 靴を脱ぐ。 廊下へ上がる。 床の小さな目印を踏み、
映画『灰の鳥』の撮影初日。 凛花が九鬼邸を出た時、空はまだ暗かった。 正門の前には、複数の黒い車が並んでいる。 先日の襲撃を受け、警備は倍に増やされていた。凛花の乗る車を前後から挟むように警護車両が走り、撮影機材を運搬する車とは別の経路で現場へ向かう。 目的地は、都心から離れた郊外の町だった。 古い木造住宅や個人商店が残り、中心部から外れた場所には小さな駅がある。 改装を重ねながら使われてきた駅舎には、何十年も前の面影が残っていた。 錆びた鉄柱。 塗装の剥がれた木製ベンチ。 低いホーム。 地方の小さな町を舞台とする『灰の鳥』には、よく似合う場所だった。 凛花が車を降りると、先に到着していたスタッフたちが一斉に振り返った。 車から次々と警備員が降りてくる。 黒いスーツを着た男たちは、駅の入口、ホームへ続く通路、撮影区域の外側へ分かれた。 スタッフの会話が小さくなる。「こんなに必要なんですか」 制作進行が蓮司へ尋ねた。「先日の件を受けて、警備体制を変更しました」「撮影中、一般の利用者も通ります。あまり目立つと、かえって混乱するかもしれません」「一般の方への対応は、こちらで行います」「でも……」「カメラの視界に入らなければ、何人連れてきても構わない」 日下部が会話を遮った。 現場用の上着を着て、すでにホームの状態を確認している。「照明と機材の邪魔だけはするな。画面に黒服が一人でも映ったら撮り直しだ」「承知しています」 蓮司は警備責任者へ短く指示を出した。 男たちはさらに距離を取り、目立たない位置へ移動する。「白峰、衣装へ着替えろ」「はい」 駅舎の一室が、女性出演者用の共用控室として用意されていた。 凛花は梓の衣装へ着替える。 色褪せたシャツ。 使い込まれた上着。 黒いパンツ。 九年間の生活が染み込んだように加工された旅行鞄。 化粧はカメラテストの時と同じく、ほとんど施されない。 腕に残る痣も隠さなかった。「顔に残っていた染料は、もう分かりませんね」 メイク担当者が生え際を確認する。「耳の後ろには、まだ少し残っています」「この角度なら映らないと思います。日下部監督へ確認しますか」「そのままでいい」 背後から日下部の声が飛ぶ。「今日は正面と横顔が中心だ。見えたなら見えたで使う」 日下
冷たい液体が、凛花の顔と胸元へまともにかかった。「きゃあっ!」 周囲から悲鳴が上がる。 視界が黒く染まり、刺激臭が鼻を突いた。 凛花は反射的に目を閉じる。 何を浴びせられたのか分からない。 酸。 その言葉が頭に浮かんだ瞬間、身体が動かなくなった。 皮膚が焼ける。 顔が崩れる。 目が見えなくなる。 恐ろしい想像だけが、次々と膨らんでいく。「凛花!」 蒼真が即座に前へ出た。 凛花の肩を抱き、自分の身体で女性との間を遮る。 スタッフたちが一斉に女性へ飛びかかった。「離して!」 女性は空になった瓶を振り回す。 男性スタッフがその手首を掴み、別のスタッフが後ろから両腕を押さえた。「瓶を離せ!」「私が何をしたか分かってるの!」 女性が叫ぶ。 空の瓶が床へ落ち、硬い音を立てて転がった。 凛花は顔を両手で覆った。 液体が前髪から頬、首筋へ流れ落ちている。 皮膚が焼けるような痛みは、まだない。 それでも、これから痛みが襲ってくるのではないかという恐怖で、指先が震えた。「水を持ってきて!」「救急車を!」「触らない方がいい、成分が分からない!」 スタッフの声が重なる。 蒼真が凛花の腕へ手を添えた。「目を開けないで。すぐ洗おう」「何を……かけられたの……?」「まだ分からない」「酸だったら……」「大丈夫。今、確認してる」 大丈夫だと言いながら、蒼真の声も硬かった。 瓶を拾ったスタッフが、床へ残った液体を確認している。 別のスタッフが手袋を着け、慎重に臭いを嗅いだ。「これ……染料じゃないですか?」「本当に?」 水で濡らした布へ、床の液体を少量つける。 布が黒く染まった。「水です!」 瓶を確認したスタッフが叫んだ。「酸じゃありません! 黒い染料を混ぜた色水です!」 その言葉を聞いても、凛花の身体から力は抜けなかった。 顔を覆った手を下ろすことができない。 本当に色水なのか。 触れた瞬間には痛くなくても、時間が経ってから皮膚が焼け始めるのではないか。「凛花、洗面所へ行こう」 蒼真に促され、ようやく一歩を踏み出す。 膝が震えていた。「大丈夫ですか」 女性スタッフが反対側から身体を支える。「歩けます」 口ではそう答えても、自分の足で歩いている感覚がなかった。 背後では、取り押さえられ
『灰の鳥』の撮影開始まで、残り三日。 古い撮影所のスタジオには、朝から照明機材とカメラが並べられていた。 正式な撮影ではない。 衣装の色や化粧、照明の強さ、使用するレンズを確認するためのカメラテストだった。 それでも、日下部玄が相手である以上、単に画面への映り方を確かめるだけでは終わらない。 凛花にとっては、主演を続ける資格があるかを試される再審査と同じだった。「白峰さん、着替えをお願いします」 衣装担当者から渡されたのは、色褪せたシャツと黒いパンツだった。 どちらも長年着込んでいるように加工されている。 シャツの袖口は擦れ、黒いパンツも膝の部分だけがわずかに白くなっていた。 ブランド名など、どこにも入っていない。 凛花は簡易更衣室で着替え、鏡の前へ座った。 化粧は最低限だった。 肌の色を整え、カメラの光で不自然に見える部分だけを補う。 目を大きく見せるための化粧も、唇を美しく見せる色も使わない。 長い髪は低い位置で無造作に束ねられた。 鏡に映っているのは、雑誌や広告で見せてきた白峰凛花ではない。 華やかな衣装と計算された照明の中で、完璧な笑みを浮かべる女優。 その姿はどこにもなかった。 そこにいるのは、疲れた顔で九年ぶりに故郷へ戻ってきた女だった。「腕をお願いします」 衣装担当者が、凛花のシャツの袖をまくった。 その手が止まる。 腕には、まだ薄い痣が残っていた。 黒い車へ押し込まれた夜、男たちに掴まれ、強く捻り上げられた跡だった。 最初は赤紫色に腫れていたが、今は黄色がかった色へ変わっている。「こちらは隠した方がいいですね」 担当者がメイク道具へ手を伸ばす。「待て」 少し離れた場所でモニターを確認していた日下部が止めた。「そのままでいい」 衣装担当者が戸惑った顔をする。「ですが、腕をまくる場面では映ります。設定上、梓が怪我をしているとは――」「消すな」「役にはない傷です」 凛花が日下部を見た。「梓に傷がないと、誰が決めた」「少なくとも、台本には書かれていません」「書かれていないものは存在しないのか」「これは私が拉致された時の傷です。佐伯梓の傷ではありません」「カメラに映れば、観客は佐伯梓の傷として見る」「私の傷を、役へ使うんですか」「映っているものを使う。それが映像だ」 日下